タカラヅカ/お芝居

スカーレット・ピンパーネル

宝塚大劇場まで行って「スカーレット・ピンパーネル」を見てきました。いやあ、おもしろかったですよ。ただ、悲しいかな宝塚のオケは健在。悪い意味で。ああ、いい歌だねえ…と思っているとぱおおおお~んって感じにハズしてくれます(笑)何年も見てないわりには、そういう昔と変わらないものが気になりました。宝塚って変わらないですねえ。

お話はフランス革命…の1794年、理想を追い求めて始まったはずの革命はいつしか独裁と恐慌へと変貌し、という時代。行きすぎた「革命」により失われる命を救うために尽力する組織「スカーレット・ピンパーネル」。その頭目はどうやらイギリス人貴族であるらしい?
かつての革命の闘士にして花形女優のマルグリット、彼女の夫となったイギリス人貴族のパーシー。彼こそがスカーレット・ピンパーネルのリーダー。
そして、かつてマルグリットと共に革命を戦い、いまは公安委員会で働き反革命の人々を捕縛するショーヴラン。彼はスカーレット・ピンパーネルを追う。

とゆう設定ですね。
パーシーとマルグリットは夫婦でありながらお互い互いに言えない秘密を持ち、ショーヴランはマルグリットの弱点を突いて彼女を脅す。この三人の関係は一筋縄ではいかずにディープでアダルトで微妙で非常に見応えがありました。お話もちゃんとしていて、コレおかしいだろうというところも特になく、充実した観劇となりました。よかったよかった。
詳細感想は閉じてゴー。

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ヅカに行って来ました。


…ブログが止まっていました、すみません。
本田透氏の「萌える男」をがんばって読んでいたり感想を書こうと思っていたりしかしこれは実は深遠すぎてヤバいものに手を出してしまうのではと思ってみたりどうもパソ椅子に座るとチョーシがよくなかったり(いい時もあるんですが)

サンデー!サンデーが!きゃあ。
でもとりあえずお試し的に宝塚ネタにします。
というわけで月組公演「JAZZYな妖精たち/レビューオブドリームス」に行って来ました。ショーは英語で書くような気がしたけどすんません。

感想としては、結構面白かったです。JAZZY。話は、ファンシーな妖精さんが登場する場面と「昔の友達がヒットマンに!」な展開が噛みあってないよーな気もするのですが、(というかこの話が同じところで存在しているのがオカシイというかオモシロイ)とりあえず主演のあさこちゃんの真っ白ぶりはぴったりだと。そしてかなみちゃんはかわいいよ、と。なんかそれだけでお釣りが来る様な気がしました。
緑色を基調としたファンシーな妖精さんが出てくる話でヒットマンきりやんが一人でマジで悩んでるとなんとも言えないオモシロ違和感をかもし出すのも、ゆーひくんの役が「オイオイ、お前さんがそれを言うかあ?!」な半端っぷりをいかんなく発揮しているのも、まあ、ご愛嬌ということで。いや、きりやんもゆーひくんも悪くないよ!悪いのは脚(以下略)

でも、そうは言いつつ、全般的には楽しかったです。
いやああさこちゃんスゴイねえ。あんな、ありえないような主人公キャラ。持ち味真っ白。ある意味、タカラヅカの主人公的な性格のなさ。あれが似合うってのがなかなかありえません。真っ白いスーツも、バケツのよーな青いスーツも、ふつう着られないよ?すごいなあ、まさにヅカのトップさん的なまっしろぶりです。なんかそれを満喫して帰ってきました。

まあ、どっちかというと「昔の孤児院の仲間五人が織り成す人間模様」っていうのも萌えなんですけどね。だって萌えるじゃないですか!

一人は政治家志望の真っ白な主人公。
一人は童話作家として売り出し中、しかし病気。
一人は暗殺者に堕ちてしまう。
一人は暗殺者に堕ちてしまった友達を庇う警察官。
一人は夢破れたジャーナリスト、今は金で動く男。

って、その設定スゴいじゃないですかー。これだけで真面目にやったらそれはそれでスゴいシリアスなドラマじゃないですか?妖精は妖精でファンタジーでいいんですが、一方でこんなシリアスな設定が半端になってしまってるよーな気がする。ソレがもったいない。
…ところでラストでシャノンが死ななかったわけですが、こーゆー話で死んじゃっても寂しいので、多少(多少?)いろんなものが棚上げになっても、ヘンに死なれても後味悪いし。

ショーはショーで、中村先生らしくレビューの王道、という感じで、非常にオーソドックスでよかったと思います。ところでショーのかなみちゃんは大活躍でしたな。オープニングで赤い衣装着て出てくるあたりとか、非常にかわいい。というか、ショーのかなみちゃんは非常にお衣装もいいしよろしいですな。
あさこちゃんの歌、という点ですが、やっぱエリザベートやっただけあって上達しておりましたね!初トップさんだというのに非常に堂々としていますね。

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ヅカでベルばらをやるらしい。

宝塚でベルばらをやるそうです。旦那様は以前「宝塚は1年中ベルばらをやっているのかと思っていたよ」と言っていましたが、当分やらないと思っていたけど、またやるのか。
やるのかあと思うと今までの全てが練習に見えてくるのがタカラヅカの恐ろしさです。
かのへなちょこ作品「望郷」は、マジでベルばらの練習でした。
たかこ海人、剣の舞。
たかこ海人、お付きと一緒に海岸で二人でたたずむ場面なんかフェルゼンが馬車に乗る手前です。
そしてロシア宮廷に名を借りて豪華衣装を着込む生徒さん。
何故?!何故こんなつまらん作品をやるのだあ!と見た当時は思いましたが、なるほど練習だったらしい。ならばあのシーンもあのシーンも練習だったのか。なるほど。

というわけで、星版もいまから練習しています。
長安はまんまですね。「貴妃-!!」が「王妃さまー!」になったらそのまんまです。
なるほど、あれは練習だったのか。まさかベルばらやるとは思わなかったから「あら、楊貴妃はアントワネット様みたいなラストね。檀ちゃん凛々しいわ」とか思ってのどかに見ていたのに、練習だったんですか。まさかあんなまんまのシーンで練習だと思うわけないじゃないですかー。でも甘かった。今までの練習だって、まんまだったものね。

見てないけど(だって東京来なかったんですもの)「永遠の祈り」ももしかしてなんかの練習だったのか?!侮りがたし歌劇団。

雪の「バッカスと呼ばれた男」も練習だったんだと思っています。だってタニーだし。でも、雪ベルばらはなくなったので、あれは練習でなくて本公演だったのです、きっと。エリザなんかもっと分かり易い話で、すみれ様刻の霊は見るからに彼女が遠からずトップになりトート閣下を務める練習だった。ルードヴィッヒは”ミルク”を思わせる場面があった。
おいおい本公演で練習すんなよ、とはいつも思いますが、おかげで本公演でなんか見ると「ここここれはなんの練習?!」って思っちゃうんだよな(笑)

というわけでわたるフェルゼン。それはそれで楽しみです。似合うぞ、きっと。
フェルゼン編のフェルゼンは一歩間違うと(いや、間違えなくても)勘違い自己陶酔野郎です。
メルシー伯爵がフェルゼンに「身を引いてくれ」という場面。王妃の名誉のために身を引いてください、と誠意を持って懇願するメルシー伯に対して、フェルゼンの回答ときたらもう。皆王妃様の立場のことしか言わず、あの方の孤独なお心を慰めてさしあげようとしないのだとか言ってます。で、メルシー伯だって、王妃の立場という点でしかモノを言ってないというのです。つまり、王妃様のお心を真に考えているのはこの私なのだとかのたまうのです。

えええええ?!だってメルシー伯だって多分恥をしのんで訪ねてきたのよ。立派な王妃になることを願ってオーストリアからくっついてきたメルシー伯爵は、アントワネット様の宮廷内の唯一の味方と言ってもいい人。そんな人の誠意をばっさり切ろうとしやがりましたよ、この男は。

でもメルシー伯爵は食い下がる。王妃さまの名誉を守るために身を引くのが真実の愛ではありませんか!いいぞーもっと言ってやれ。フェルゼンのはタダの自己陶酔だ。目の前の他人を貶めるような失礼な物言いをして、自分の愛だけが真実だなんて言いやがる勘違い野郎になんざ負けるな!

メルシー伯もフェルゼンも、立場は違えど、本気で王妃を思いやっているのです。その、本気で王妃を思いやっている人が、「ナニやったって王妃が王妃であることには変わりないんだから、立場を考えて本当に彼女のためになることをしろ」と言います。それはそのとおりなのですよ。
こんなまともなことを言う人に、「だけどボクは王妃を愛してる、ボクだけが彼女の気持ちをわかってあげられるんだ、だから離れない!」とか言い出したらどうでしょう?バカ言うなスウェーデンに帰れ!と思いませんか?

でも、さすがにフェルゼンは帰ります。まあ当然ですな。
しかしこれ、いいのか。真っ当なことを言うメルシー(サブキャラ)に説教されて、我侭に基づいた持論を引っ込めるフェルゼン(主人公)。でも、作中ではフェルゼンは「わたしはまちがっていた」とか言わないんだよなあ。困ったさんです。

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タカラヅカ・友情の在り方とは如何に?

宙チケを持っていないのでしばらくヅカに行けません。
大野作品は思考中。「花のいそぎ」はずいぶん評判がよかったようですが…

というわけで今回は観劇日記ではなく、「宝塚における男の友情とは?」とゆーことで考えてみました。というか、書かれるかたによって、友情のカタチが当然違うわけです。一番理想的、というかもはや理想像の域に達しているのが柴田作品の友情物ではないかと思います。

柴田作品は基本的に主人公がオトナなので、お友達に対しても、自分の立場と相手の立場の違いも考慮した上で、「忠告はするけど過干渉はしない」という意味で、非常に大人同士の友情なのではないかなーと思います。『凱旋門』のボリスとラヴィックとか。自分(主人公)も相手(友達)も双方、大人ですよね。相手の意志を尊重している。

友達に限らず「自分がこんなにしてるんだから、相手だってこうしてくれたっていいじゃない」という気持ちを持ってしまいがちだと思うんですが、相手には相手の立場がある。柴田作品の友情は、大人同士の友情。

しかし大人じゃないと友情は意味がないわけじゃなくて、子供同士の、お互いがお互いの気持ちをぶつけあうエゴもまた友達だからこそ。「友達だろ?なんとかしてくれよ」縋っているようで押し付けているようで、ぶっちゃけそれは依存というものだと思うわけですが、(私が見た限り近年のヅカで)「俺たち、友達だよな?」という台詞を使った演出家が二人います。

「花吹雪恋吹雪」齋藤吉正と、「聖者の横顔」荻田浩一。
「花吹雪恋吹雪」の舞台は戦国時代。主人公の友人・善次は、忍びをやめたあと僧侶となり、比叡山で仏の道に生きる決心をする。しかし織田信長によって比叡山は焼き討ち、善次は己の居場所を失わせた信長への復讐の念に燃え、信長暗殺を試みるが失敗し追われる身となる。善次は主人公石川五右衛門(安蘭けい)に助けを求め、「友達だから」助けて欲しいと懇願する。

「聖者の横顔」はイタリアの港町のお話。主人公は、誰からも愛される属性を持ったルーカ(さえちゃん)。さえちゃんルーカはジゴロという設定だけど、それは所謂イタリアのジゴロというイメージからはかけ離れたアクのなさ。彼はきれいだから(顔もココロもね)、彼のきれいさに惹かれて女たちがかまってくれるのです。ほんとにそんな受け身なイタリアのジゴロがさえちゃん(つか、ルーカだってば)。
ルーカには孤児院の仲間がいる。仲間たちは希望の象徴として「いつか海を渡ってアメリカに行こう」と語り合っていた。ルーカは孤児院の仲間うちでもなんとなく人気者。それは彼がきれいな存在だからなのかな。
孤児院の仲間のひとりファブリッツオは、本当はアメリカへなんか行けないと知っていた。だから彼は就職して地に足をつけて働こうとした。だけどルーカはなにもせずふらふらしている。でもやっぱりルーカが一番もてる。ファブリッツオの就職先の貿易会社のお嬢様のフランチェスカも、ルーカに惹かれている。

さてそんな状況で、ファブリッツオがルーカに結構な無理を言う。それは、ファブリッツオの勤め先の貿易会社の裏帳簿の入手。ジゴロであるルーカのパトロンの一人が、貿易会社の社長夫人だったから出来たことだ。ルーカは「友達だから」とファブリッツオの願いを聞いてしまう。結局、会社は大混乱。ファブリッツオは出世できるとかそういううまい話を振られて、裏帳簿を手に入れてしまったが、結局は騙されて勤め先を失っただけだった。
この事件が端緒となり、社長夫人イレーネはかつての恋人と心中。あろうことかルーカはその場に呼ばれ、心中という名の儀式の証人にされてしまう。ルーカは何もしなかった。ただ、状況に流されていただけだった。だけど母親の命と父親の会社を失ったフランチェスカは、どうにもならない憤りをルーカにぶつける。「なにもかもあなたのせいよ!」ほんとはそうじゃないってわかっていても、そうするしかなかった。

フランチェスカは混乱した心のまま、自分に気があるファブリッツオをそそのかす。「ルーカを殺して」と。ファブリッツオも混乱したままルーカにナイフを向ける。ルーカは穏やかにファブリッツオを止めようとする。「俺たち友達だよな?みんなで一緒にアメリカに行こうって約束したよな?」
しかし、ファブリッツオはルーカに対するコンプレックスのいっさいをぶつける。
アメリカなんて、そんなもの最初から行けるわけなかったんだ。だから俺は働いて、それで…その間お前は何をしてたんだよ?お前は何も悪くないかもしれない、だけどお前はなにもしなかったじゃないか!

友達だから依存してしまう。こうして欲しい、こうしてくれるでしょ?だって友達なんだから。無理を言ったって聞いてくれるはず。俺たち友達なんだから。逆に、友達でいたいから、相手の話を聞いてしまう。友達でいることを確認するために「俺たち友達だよな?」と言葉に出してみる。心底から判っているなら、そんなこと口にしなくてもいいのかもしれないのに。

自分というものがわかっていて、相手が自分と違う生き物だとわかっていて、お互いの立場を尊重し、お互いを思いやり、押し付けあわない。それが柴田作品における大人同士の友情。
だけど、自分がなんなのか判らなくて、相手だって自分が思うとおりに応えてくれたっていいじゃないかと願うこともある。それはお互いの立場を弁えた行為ではなくて、まだ子供同士なんだねってことなんだろうけど、子供なだけに、その未熟さがとてもリアル。身につまされるような痛みがある。

柴田作品の友情は、かくありたいという理想形だけど、ほんとは「花恋」や「聖者の横顔」であるような弱くて身につまされるものかもなーと、比較して思います。

なんか他の先生の作品について書いておりませんな。機会がありましたら、また。

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「王家に捧ぐ歌」(7)最後に

長いなあ今回。というわけで次はラダメスです。

えっと、ラダメスっておばかさんだよね。無神経だよね。あんな指輪アムネリスさまの見ている前でアイーダに渡すなんてどこのバカですか、というのは展開の都合上なのでおいといても、彼は無神経です。

だって一幕の最後。ラダメスは戦に勝ち、アイーダの父親を捕らえてくる。「このものたちを捕らえました!」と高らかに宣言する。アイーダは駆け寄って叫ぶ。「お父様!どうかお父様の命だけは!」と。この状況でラダメスは、エチオピアの解放を宣言する。そしてこれが、彼がアイーダに示す愛でもあるんですな。

この人素晴らしいですよ。素晴らしく無神経。目の前に父親を捕らえてきて、解放してあげます、あなたを愛しています、あなたのためです。その前にあなたの国の軍を滅ぼしてきたんですけどね。でもあなたの国を解放してきましたよ。愛していますアイーダ。

すんげー上からモノを見た態度。無神経極まりない。でも天然ですから。素でこうですから。彼はエジプトの有能な将軍なので、エチオピアを倒すのは当たり前。でも、アイーダのために、アイーダに共感したため、戦いを終わらせよう!と思うわけです。

この話がどうも曖昧なのは、ラダメスの真意はどう判断されるべきか、保留のまま終わってるよーな気がしなくもない点です。アムネリスと、エチオピア王の判断は同じ。ラダメスはアイーダのためにエチオピアを解放してやった。それは端的に個人的な感情、エゴのゆえ。崇高な姿勢なんかじゃないんだよと言う。
わたしそれってそのとおりだと思うんですよ。ラダメスは善意であれ、アイーダがこう言うからやってみたってだけなんだと思う。でもおばかさんだからすんげえやってることが無神経。

それが悪いとは思いません。つか、そんなもんじゃない?人は自分のためになることしかしない。人というのはそんなもんです。

そこでアイーダが「ならば私は『戦いは新たな戦いを生むだけだ』と訴え続けよう」って…その文脈はなんでしょうか?

アイーダがラダメスと自分のためだけに、戦なんか起こってもかまわないと思ったのはエゴでしょう。それはそれでかまわない。アイーダはエゴのためにすべてを捨てた。ならなんで最初に戻るの?私も私のエゴのために戦いを生んでしまったって方向に行かずに、なんで自分だけ正しいの?これがわかんないんだよなあ。

キムシンキャラは言いたいことは死ぬほど口にするから、「実はアイーダは自分も悪いと思っていて」とは思えないんですよ。どーにも。スルーして責任回避して、言いたいところだけ言ってるように見えてしまいます。

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「王家に捧ぐ歌」(6)お嬢様アムネリス様のドラマ(後編)

お嬢様の立場ははっきりしています。ファラオの娘だから手に入らないものはなにもない。同時に彼女は何も失うことはない。いっそ戦争があればいいのに、と彼女は二幕で嘆きますが、それは大事で身近な人が戦争で死ぬことがないからではないかと。
逆に、バリバリ軍人のケペルもメレルカもわりとさばさばしている…ように見えました。やっぱこっちが何度も見ると最初の思い込みより違うものが見えるのか。一幕で人を死なせて戦っていた彼らが、戦争なくなってオレら用無しだよ、だから飲もうと言いながらお友達を引っ張っていく。ああ、この人たちはもうさっぱりしちゃって、これでいいのかもしれない、と思いました。戦争していた人が「もういいよ、オレらはいらないってことで」と現実を受け入れられるのに対して、目の前で人が死ぬ様を目の当たりにしていない王女が「こんなにふやけているなら戦っているほうがましかも」と思う。

見ているものが違うから、あまりにも違うことを考える。アムネリス様は、負けたら泣くのは当たり前だと思っている。それに対しての反論はシンプルに行ってこうです。「じゃあ、あなたが負けたとき、あなたはあんな目に遭うのを甘受するんですか?」でもアムネリス様は言うと思う。「エジプトは負けません」。アムネリス様はたぶんそう思っているから、あんなふうに傲慢になれる。そこが彼女の立場ゆえの強さ。

そのアムネリス様の立場がひっくり返るのは、終盤、ファラオが暗殺される場面。目の前で父親を殺され、暗殺者の意味深長な言葉(お前たちの中に裏切り者がいる!)に、周囲は動揺し、磐石であったと思っていたものが目の前で崩れ落ちていく。

このままいったら、たぶんエジプトは駄目だったんだと思う。そーゆー意味では、エチオピア側の作戦は当たっていた。このまま大国エジプトは崩れ去り、エチオピアが勝利するはずだった。エチオピア側は勝つために策を練った。けど面白いのは、思ったとおりになんか運ばなかったってこと。必ず不確定要素があって、思ったとおり物事が動くとは限らない。

エジプトの窮地を救ったのはラダメスとアムネリス。この時点ではラダメスはアイーダと生きるためなにもかも捨てていいと思っていたけど、捨てていいと思ったのは自分の地位。エジプトが滅びることなんか望んでいないわけで。彼はエジプトの危機に際して、動揺する人々を鎮めてしまう。ここがラダメスの将軍としての手腕だなーと思う。この人、ほんとに有能なんだと思います。
裏切り者は誰だ!と騒ぐ人々、普段偉そうな神官は、こんなとき役に立たなかった。ラダメスは、「裏切り者は私だ」と告げる。ここが第一段階。けれどこのままでは、ラダメスが裏切り者ってことで、人々のパニックは収まらない。

最終的にすべてを収めてしまったのはアムネリスの豪腕ぶりです。アムネリスは目の前で最愛の父に死なれ、ラダメスが裏切り者だと聞かされる。アムネリスが愛した、父が守った国はどうなってしまうのか。このままエジプトは崩れていってしまうの?アムネリスは放心の体で立ち上がる。そして「わたしが今からファラオです」と宣言する。アムネリスは、愛するラダメスの剣を引き抜き(その剣っていうのは、ラダメスがファラオからもらったあの剣なんだよなあ…)、震える手で愛しい相手の首先に剣をつきつける。

アムネリスはエチオピアの殲滅を宣言し人々を鼓舞し、エジプトの窮地を救った。アモナスロの策略もウバルドの決死の覚悟も意味をなさず、エジプトは死なず、エチオピアが滅びてしまった。急激につきつけた刃は返す刀となり、起こらなかったかもしれない皆殺しを引き起こす。
アムネリスが嘆くだけの女なら、エチオピアは勝っていたかもしれない。そして誰もが、アムネリスがあんな強い女だとは思っていなかった。

不確定要素がことの成り行きを一方の思惑とは正反対の方向へ持って行く。このダイナミックさ。見ているこっちは、「どーせこの作戦は失敗するのに」って思っちゃうけど(特に何度も見ると)、そんなことはない。成功するかもしれなかった。そのはずだった。でもぎりぎりのところでアムネリスがひっくり返した。すごい話です。

最後のドラマで、いままで敵役(それも非のうちどころもない系統の)であったアムネリスは、いっきにヒロインになってしまう。父親を失い、愛する男を己の手で罰しなければならない、国を背負った女性。だけど私の前で「あの女に騙された」と言ってくれたら、あなたを逃がしてあげる。なりふりかまわなさと向こう見ずさ、そして女のプライドが垣間見えるよなあ…かっこいい。愛する人をこの手で…!すんげーかっこいいお話です。もちろん自分でってんじゃないから、こんなヒロインを見ているとすんげーかっこいい。不幸と悲しみに打ち震えつつ強さを保ち続けるアムネリス様は本当に美しい。

でもラダメスって最後までつれないのね。「あなたはまだ戦い続けるのか」ってさー、可哀想じゃないですか。アムネリスの行動は今までもこれからもずっと筋が通っていたのにね。だって他にどうすればよかったの?全部許せと?そーゆーわけにはいかないっしょ。それじゃあ駄目だったでしょ。あのときのアムネリスの判断はものすごく的確だった。もう、カンペキなくらいに的確だった。国のため、愛する父親の仇をとるためにはああだった。

だってエチオピア人は卑怯極まりないやつらですよ?死なせちゃってもよかったけど、生かしておいてやったのに、よりによって闇討ち。闇討ちの上不意打ち。さいあくー。せっかく寛大なファラオがお許しになったのに、ヤツらは闇討ちで不意打ちですよ。ふつうにやっても勝てないと思って、あの寛大なファラオを闇討ちですよ。そんなひきょーなやつらは今度こそやっつけちゃいなさい。

…とゆうふうにエジプト側は思ってたんじゃないかな。その思いを背負ったアムネリスがエチオピア殲滅を命じたのは流れとしてそーなっちゃうわけで…でもエチオピア側としては、どうあっても勝ちたいんだけど、ふつうにやったら勝てない。でも、勝てばいいのです。相手なんかお互い人間じゃないんですよ、だから勝てばいいんです。

どっちが悪かったのか?そりゃ最初に征服した側でしょう。でも、今のアムネリスが国のためにやったらああなってしまった。まさに復讐の連鎖。こんなものはどーにもならない。

こんなどーにもならないものをどうすればいいか。せめて人が死なないようにしてください。「こんなものは無駄だ」とどこかで気づいた人はそう思うようになる。

いきなりですが、ケペルもメレルカも、気づいてた口なんだと思う(初演では思わなかったのですが、役替わりの今回何故かそう思いました)。目の前で部下が仲間が死ぬところを見ていた人は、死なないのが一番だと思える。ラダメスは相手を死なせて自分がのし上がっていく人なんだけど、アイーダに言われて、もしかしてなんか違うのかも?と漠然と気づいていく。

こーゆー話だからアムネリスは悲しい。どーにもならないけど、彼女としては他にどうにもできなかった。そして、愛する人は分かってくれない。自分がどんな思いでいるのか、分かってくれない。とどめのように、「いつまでこんなことを続けるんだ」と言い残されてしまう。

じゃあ他にどうすればよかったの?だって全部あなたのせい。あなたがアイーダに騙されたせい。あなたは私が愛する国が滅びればよかったっていうの?お父様を殺した憎いエチオピアを滅ぼさなければみんな納得しなかったわ。私はこんなに悲しいのに立ち上がったのに、あなたはわたしの気持ちをどうしてわかってくれないの?

だからアムネリスは剣を置いた。愛する人の残した言葉を果たしてみようと。

そーゆーわけで、すごい話です「王家に捧ぐ歌」。テーマの表現が浅薄だなんだと書いてみましたが、実際にはすごいドラマチックな話なんだと思いますよ。だからあまり余計なことを言わないほうがよかったんじゃあ…と思うわけです。
というか行間の説明がまったくなくて(それは彼の持ち味だと思うけど)ツッコミどころ満載だから誤解を与える部分も観客に読ませる部分も大きすぎて、ツッコミどころを減らせばいいのになあ、といつも思います。

あと、このショーは平和への祈りとする、とか、そういうことは言わなくていいと思いますよ、個人的には。実際問題、タカラヅカを見に来ているのですよ。だから、タカラヅカを見せて欲しいわけです。あなたの主張だけなら見に来ない。ジェンヌさんが演じているから見に来ている。タカラヅカに来る人は本質的にそうだと思うわけです。

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「王家に捧ぐ歌」(5)お嬢様アムネリス様のドラマ(前編)


さて、お嬢様アムネリス様です。
ものごとはあるべき道をたどるのです、と仰るお嬢様です。このお嬢様は素晴らしい!マヤもいいけど亜弓さんはかっこいいよなあ、と思われる方向け、日本のお嬢様。設定は古代エジプトの王女だけど、日本のお嬢様キャラです。
才色兼備、お高くとまって気高く美しい。主人公貧乏キャラのライバル。でも、悪いヒトじゃありません。主人公の実力を認め…かと思ったら違いました。

お嬢様は、自分の許婚候補の男が、実は貧しい娘に思いを寄せているのを知っています。だけど私が愛するあの男が、私を選ぶのはあたりまえ。だってあの人は才能あふれる将軍で将来を約束された身の上、そして私はファラオの娘。私とあの人が結婚して、あの人はエジプトのファラオとなる。どうしてあの人が私以外を選ぶでしょうか?そーゆー思考回路です。

みっともないまねをして己の品位を下げようなどとは思わないお嬢様、貧しい娘アイーダを呼び出し、アイーダの本心を聞き出そうとする。お嬢様は、「愛しいラダメスが死んでしまいました、共に嘆きましょう」とアイーダにうそをつく。アイーダはお嬢様のうそを信じて、私もラダメス様が好きでした、と白状してしまう。そこでお嬢様豹変。
身の程知らずもいい加減になさい!バシッとアイーダを一喝。そしてお着替えにその場を立ち去る。するとお嬢様の側近たちは、アイーダを苛める苛める。お嬢様が好きなあの人を恋しいなどと誰もいえないのに、この女はなんて身の程知らずなんだろう、と。このあたりの変なリアリティはすばらしいです。木村先生は大映ドラマか少女マンガをかなり研究されている!
さて、お嬢様は着替えて戻ってきます。戻ってくると自分の取り巻きがアイーダを苛めている。「おやめなさい!」お嬢様は取り巻きたちをたしなめる。私たちは誇りを失ってはなりません。私たちはこの人に、ただあるべき道を教えればいいのです。お嬢様は仰る。
お嬢様は強いのでいつでも正々堂々です。誇りを忘れません。
お嬢様は正々堂々とだまし討ちをなさいます。ぬけぬけと大嘘をついてひとの本音を聞きだしておいて、「この身の程知らず!」と、それはそれは丁寧に仰るのです。ってゆーかこの状況でお嬢様がアイーダを置いていったら、そりゃ側近に苛められるのは目にみえておりますがな。でも放置しておいて、あとで側近をたしなめるお嬢様。素敵。なら最初から置いていくなよ!

素晴らしいお嬢様です。これを檀ちゃんが素晴らしく演じております。
手つきとか指先の動きとか素晴らしい。なんかおもしろい被り物も似合うのが素晴らしい。正しいお嬢様らしく、傲慢なのに厭味がない。だってアムネリス様はこんなに美しくて素晴らしくてお嬢様なのですから(王女様だよ)、傲慢なのは当たり前でしょ?

とゆーふーに敵キャラだったお嬢様アムネリス様は、クライマックスでいっきに、この話のもう一人のヒロインにのし上がってしまう。以下、続く。

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「王家に捧ぐ歌」(4)別のことを考えてみる

ぜんぜん違うことを考えていました、というのは、ファラオが出てきて、神官たちが出てきて、歌い継いだところです。
そう、ファラオが一番歌がうまい(笑)
私はその瞬間思いました。そうか、ファラオとは、一番歌がうまいヒトが選ばれるのですよ。だって神官さまより上手なんですもの。王さまが一番うまいんですもの。つーことは、ファラオになる条件は歌のうまさ!

しかし娘が婿に選んできそーなのは、わたるくんです。次代のファラオとなりそーなのは、わたるくんなのです。他にいいとこいっぱいあるが、歌はあんな感じです。いや、あれがいいんだよ!とも思いますが、ファラオの条件は歌がうまいこと。やー、困りましたね。ちょっと、猛特訓が必要かも。いやいやでも愛する娘が選んできたわたるくん。よい青年ではないですか。条件的には厳しいが、でもこの私が仕込めば!大丈夫!かくてファラオはわたるくんを新月から14番目の夜に誘い、歌の特訓をしようと思っていたのでした。しかし!敢え無くファラオは殺され希望を失い…可哀想だ、ファラオ。

とか箙さんが歌ってる間に考えてたわけですが(爆)歌ネタとゆーとエチオピア三人衆。「サウフェ、あなたもなの?」と嘆くアイーダ王女さま。
大丈夫アイーダ!その子はうまいから大丈夫だ!とか思っておりました。ゆかりちゃんも好きですよ。歌はすごかったけど(笑)でも素晴らしくきれいですな。

そーいやラダメスのお友達ケペルとメレルカも役替わり。
私はこれはなかなか好きでしたー。
とくにケペル。メレルカもいいけど。
ケペルは一直線で、ラダメス好き!です。
でも裏切られたらもう、「お前なんか知らねーよ、けっ」って顔で豹変です。その安易さはなんですか。その文脈の行間のなさはなに?と、初演の時に思っておりました。なんかもっと演出があってもいいと思ったわけです。そんな単純なもんじゃないでしょー?なんか一言でもいいから入れてよキムシン先生!と、思ったのですが。
それでやってるのがしいちゃんなので、まっすぐそのまんまなんですね。まっすぐそのまんまなケペルが、裏切られたと思ったら「お前なんかトモダチじゃねーよ」って顔。まんまです。
そこ、行間ないんですか?!と、私は思っておりました。
でも今回はあるんですね。
なぜって、ケペルはそんなに一直線ではないから。普通にラダメスが好きなお友達だから。極端から極端に振られると、え?それってケペルが単純バカなだけ?と思っちゃうけど、普通のヒトがあのような状況を経てああなるから、ああなるほど、そうだよなーと思えました。ふつうというのは、良くも悪くもあるという意味で、しいちゃんの個性は「悪そう」という部分がないんじゃないでしょうか。

いや、ケペルは要請上単純バカでいいのかもしれませんが。でも、キムシン脚本にありがちな「行間のなさ」というか、鳳凰伝でてめえのために死んだお友達スルーですかそうですか主人公カラフさんよ、ってーノリが垣間見えまして、私としては今のも別物で、こういうのも別の説得力があっていいんじゃないかと思いましてなかなか好みだったりします。


エチオピア三人衆に関しては、たとえばフィナーレの歌詞なんか聞いてると、「演出家の主張」が見えすぎて、私はいまだにキャラクターとして見られておりません。「神の名の下の殺人とはなんと愚かな!」を具現化したウバルドも、「ああ、そういうのがやりたいのね。そのまんまだね、そうなのね」という風に思ってしまうので…ウバルドは王子なのに自決ってなんて未来のない、なんで?じゃなくて、だって自爆テロさせたかったんでしょ、とゆうふうに思ってしまうわけです。それも不毛は不毛なんですが、なんかウバルドというのは一番、「演出家の主張が見えすぎる部分」として気になってしまいます。

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「王家に捧ぐ歌」(3)苛められるヒロイン

なんかハイパー不穏なことを書いていますが、だから宗教はいいとかいかんとか、そういう話ではありません。現実になにかを信仰している方に対して、というのでもありません。

なにがいい悪い、といいたいのでもありません。なにがいい悪いとは、あんな簡単に割り切ってしまえるものではない、とだけ言いたいわけです。
「宗教」のもとに戦争を、というのではなく、強い信念があり思想があり、「宗教」という形で示されているのだと思うわけです。昔王様は神様だったから。王様の施政がまずければ、神様から天変地異という形でNOを突きつけられたりするわけですよ。こんな天変地異が起こるのは今の政治が間違ってるからだ、っていう思想もあるわけですよ。

宗教というのは現代においては一個人のものと受け止められるようになってきているのだと思いますが、むかし昔は、生活のすべてに結びつき、政治と結びつき、分かち難いものだったわけです。

だからあんまりシンプルに切り取って「宗教とは」「神とはなにか」とか言ってしまうのはいかがなものかと思います。

しかし、そーゆーハナシを取っ払ってみると、「王家に捧ぐ歌」というのは非常に面白いです。つか、たぶんキムシン先生からすると、そーゆーハナシを取っ払われることは不本意でありましょう、とは思います。でも別に、世の中の全員がキムシン先生の望みどおりにテキストを読んでくれたりはしないんで。申し訳ないですが。

さて、本題「王家に捧ぐ歌」。
これは非常に重層的に楽しめるお話です。ラダメス、アイーダ、アムネリスのそれぞれの立場でどーなのよと考えると楽しい。普通に三角関係のメロドラマです。しかも悲恋もの。

アイーダを主人公とすると、アムネリスはライバルのお嬢様。往年の少女漫画か、はたまた大映ドラマかって感じですが、地位も名誉も美貌もあるお嬢様がライバル、ヒロインのアイーダはとらわれの姫君で奴隷、でも愛するあの人は、ライバルのお嬢様じゃなくて私を選んでくれるのです。
でもアイーダはいじめられる。「アムネリスお嬢様(いや王女さま)と張り合おうだなんてあなたどういうつもり?」と、お嬢様の取り巻きにいびられるアイーダ。べったべたな展開が気持ちいい。アムネリスお嬢様は、愛するあの人にふさわしい人なのです。美貌の王女。愛するあの人は、王女の婿となることで、大国の支配者となる素晴らしい道筋が開けている。

でもあの人は、お嬢様でなくて私を愛していると言ってくれる。私もまた、誰にもいえないけど、あの人のことをお慕いしている。

…とゆうにはどうも、アイーダってラダメスのどこがいいと思ってるのか、いまいちわかんないんですが(わたるがラブで素敵だから!つーのは抜きにして)

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「王家に捧ぐ歌」(2)そんなのおかしいよ。


さて、キムシン作品ですが、「王家」は9・11まんまですよね?あの阿呆な歌詞でアーティストとか古代エジプトに生まれたら詩人とかギャグですか?とか、ていうかあなた語りすぎですよプログラムで、とひたすら突っ込んでおりました。初演当時。

なんというか「神の名の下の戦争とはいったいなんなのだ」というあの問いかけの、なんとも言えない安っぽさとうすっぺらさに脱力するとともに、こんなセンスのない歌詞しか書けない脚本家が自分を詩人と称するとはいったいこれはどういうことなのだ、とプログラムのキムシン風に懐疑してみました(大きなお世話)

あのうすっぺらさは、なんていうか…神様の言うことは正しい。自分らの言ってることは正しい。オレら正義だぜ!だから正義じゃないヤツはやっつけてしまえ、責めていい、攻めてしまえ。だってオレの言ってることあってるでしょ?キムシン先生はそれをいかんと言っています。

でも、アイーダは同じことをやってるんですよ。自分だけが正義だと。そしてアイーダは、自分が戦を引き起こしたにもかかわらず、ぬけぬけと最後まで「戦いは新たな戦いを生むだけなのよ!」と言い立てる。アイーダは「戦いは新たな戦いを生むだけ」教の教祖です。そして、教祖様は、たとえご自身のエゴによる行動でもうひとつ戦が起こったとしても、「戦いは新たな戦いを生むだけなのよ」と説教して歌って言ってりゃいいのです。だって教祖様の仰ることはいつでもどこでも正しいんですから。だって教祖様が仰るとおり戦いは虚しいものだったでしょう?だから戦争はやめるべきなんですよ。

え、でもその戦争の原因の一端って教祖様じゃあ?教祖様がテロを誘発したからじゃ?なんで教祖さまは親に向かって説教してるんですか?なんで戦争の一端を担う本人が、まるで自分は何も悪くないみたいなツラ構えでえっらそーに説教なさってるんですか?

やー、そんなことないですよ。教祖様はいつだって正しくていらっしゃるのです。だって、教祖様の仰る教えは真実ですから。

かくて、「戦いは新たな戦いを生むだけ」教は浸透していくのでした。

…意地悪く見るとそういう話じゃない?

宗教というのはそーゆーモンです。一方の正義は、一方にとってははた迷惑。だけど、じゃあ、その「一方の正義」に真実がまるでない、ということではないのです。むしろ、どちらも真実だからこそ、取り返しのつかないような争いごとになるわけです。自分が真実だと信じているものを貫き通すために、相手をやっつけなければ、自分が信じているものを通せない。それを「迷惑な」というのは簡単です。愚かだ、というのも簡単です。でもそんな簡単に迷惑だ愚かだと言えますか?

神様はなんのためにいるのですか?どうして人は神様を求めるのですか?

「神の名のもとに戦争するなんて愚かだ」そのとおりです。でも、人はなぜ神様を欲しがるのですか?神様を心に持った人々が地球上にたくさんいるのはどうしてですか?

神様は戦争するための理由にもなりますが、決してそれだけではありません。
神様を理由にして戦争をする⇒宗教ってなんなんだと思うのは、自分のなかに神様がいないからですね。神様がいないから、神様の理由を必要とする。
自分のなかに神様を持っている人は、神様がいる理由なんか要らないのです。だって、そこに神様はいるのですから。神様を疑う理由なんかないでしょう?

たったひとつの真実を持っていること、それを貫き通そうとする強い心、それはよくもあり、悪くもなります。ひとつのことがよくもなり悪くもなる。でも、本人のとってはよいものでしかありえない。でも一方にとっては悪いものになってしまう。

簡単なことではないのだと思うのですよ。
そんな、「オレは神のお告げを受けた、だからあの男を殺す」的な端的な台詞で、神の名の下の殺人を表現できるわけではないのです。それって、「そんなのおかしい、どうかしてる」と思ってるところから来る表現ですよね。でも、どうしてその人にとってそれが真実なのか、その人のことを考えてはいませんよね?

わからないかもしれない。神様を心に抱いていなければ、理解できないかもしれない。でも、理解できないから「そんなのおかしい」と思うだけでは、あいつはオレと同じものを信じてないから間違ってるんだと思うのと同じじゃないですか。私たちはもっと、相手の立場に立って考えなくては、相手のことは分からないのです。

や、なんかおかしな方向に飛んでしまいました。そーじゃなくて「王家」のハナシ。

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