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相棒-劇場版-感想(2)

で、こっちは「満足できなかった部分」を延々考えてみて、どうしてなんだろう?というのをひねり出してみたパートです。なので、基本的に悪いことしか書いていません(いつもそういうことをしている気がしますが・苦笑)。こんなの書いてますけど、これは全部後付けで考えたことで、しかも私が「相棒ってこうじゃないか!」みたいな思い込みを元に書いているモノですので、そんなへんな思い込みを持っていなければなんら問題ないし、そんなコアなファンばっかりを相手にしたら客層が増えていかないし、そんなわけでこんなん書いたからと言って相棒の映画に文句があるわけでも、こんなんじゃ駄目だよと思っているわけでも、やっぱりつまらなかったと言っているわけでもありません。いや、本当にそうなんですよ。ただ一つ、「で、なんでこのテーマを相棒でやる必然性があったの?」ってだけで。
というわけでこっちも閉じてみます。てか、映画どころかドラマ版相棒のネタバレしまくりですがな。

これは相棒でやるものなのか?という違和感。
そりゃ、シーズン1の特命係の謎(というか右京さんの過去)が明かされるエピソードも、実在の事件がモデルになってましたから、実在の事件をベースにして使うからへんだっていうんじゃない。でも、あれは杉下右京という人物のその後の人生が大きく変わってしまう様を描いたエピソードなんですよ。だけどこの映画はどうですか?右京さんが最後まで犯人との推理ゲームに身を投じていて、亀山くんは働くのは働くけど人間ドラマとしては空気のような存在だった今回、いったいこの事件が、「相棒」で描かれる理由がありましたか?

相棒シリーズでは社会派ものが必ずシーズン毎に登場し、それは実際に起こった出来事に近いが故に苦い味を醸しだし、相棒という作品のカラーの一つになっています。だけど、単に「実際に起こった事件を訴えている」からじゃないと思うんですよ。「杉下右京」と「亀山薫」という二人の人物を使って、実際に起こりそうな事件について訴えている。

シーズン1の「下着泥棒と消えた死体」で、特命係の二人は、所轄の不祥事とその隠蔽工作を見つけてしまう。それを告発するために覚悟が必要だと、右京は亀山に告げる。その「覚悟」を亀山は「身内の不祥事をバラしたら自分がクビになるかもしれない」覚悟と捉える。だけど実際にはそうではなかった。右京の言う「覚悟」は、「自分たちの告発で、末端の警官一人のクビを切らせる」覚悟だった。右京は厳しく、亀山は甘い。これは相棒の基本設定です。だけど亀山はそのぶん優しく、相棒は亀山の率直さに救われる話にもなっている。だからシーズン5の「裏切者」で小野田官房長は言うのですよ。「特命係を動かしているのは杉下だと思っていたが君だった」と。

じゃあ今回の映画はどうだったかっていうと…右京は犯人とチェスをやってました。あとは映画らしく追いかけっこをしていました。亀山は追いかけっこの担当者として頑張って働いていました。そして二人は真犯人と対峙し、真犯人は右京に対し、この国の問題点を蕩々と語る。これ、はっきり言って、真犯人が語る相手が右京さんである理由があったんですか?この映画では、この国の問題点を犯人が語る。これをやりたかっただけじゃないんですか?
そして、亀山くんはこの話でなにか(犯人を追いかける以外のことを)したんですか?じゃあこの話、べつに相棒じゃなくたっていいでしょう。
いや、理由がなくてもいいんですよ?たんに珍しいタイプの事件を、犯人を追いかける、たまたま捜査する側が特命係であったり湾岸暑であったりするならそういうものです。

だけどこの映画は、
*今までの相棒で社会派のテーマを繰り出してきたその実績に則って
*今回は「日本人の乗せられやすさや移ろいやすさ、無責任さへの怒り」をテーマに持ってきて
*そのために実在の事件をベースにしている
わけなんですよ。

そのわり右京と亀山に犯人やその周辺の人間とのドラマがないから、さらに、なまじモデルがはっきりしているために「これは相棒をやりたかったというよりもこっちのモデルのいる事件をやりたかったのでは?そこに相棒を嵌めてみただけなのでは?」という懐疑が浮かんでしまって拭えないのです。

正義のためと言ってテロ行為が許されるはずもない、というのは右京さんがシーズン6「正義の翼」でも語っています。それは右京さんが今まで積み重ねてきた正義ですから、ゆきずりの犯人にそう語ってもなんら問題はありません。
同じシーズン6のお正月スペシャルでは、同じ戸田山脚本で、日本の現代史に残っている「革命」というモノを扱いながらも、真犯人の婦人と右京との交流、彼女が行きずりの右京に求めたモノみたいなのが出ていたから、社会派的なテーマとドラマとしての「相棒」が合致していたように思います。でも同じになっちゃうからこの構造は今回、使えなかったんですかね。

ああそうだ、この話亀山が空気なんですよ。そして相棒というのは、一見役に立たなさそうな、ちょっと見には右京さんのパシリのような亀山にきちんと存在意義がある、そういう話のはずなんですよ。亀山の存在意義はTVシリーズでは毎回登場する訳じゃないけど、映画でまで亀山が空気でどうするのかと。でも実は戸田山さんは亀山を空気にしがちかもしれない。じゃあしょうがないのか?(爆)

で、私はこの映画を見てアレを思い出しました。アニメの鋼の錬金術師で、いささか過剰に「戦争とはなんぞや」という描写をやっていたヤツ。それはハガレンでやる理由があったんですか?ハガレンというフォーマットで自分たちがやりたい「戦争とはなんぞや」というのを挿入してみたんじゃないですか?という。

っていうか、「なんで犯人はわざわざ右京さん相手にチェス勝負をしかけてきて、あんな手の込んだ真似をして、結局そうすることでなにをしたかったのか」という理由もないんですよね。
マラソン大会に仕掛けた一連トラップは周到な事前準備が必要なものでしょうから(って、無人ボートのやつね)右京がこの事件に関わってくる以前からこの計画は進行していたと考えるのが自然でしょう。だけど、なんでそこまで大がかりにしたのかがよくわからない。

犯人の行動は最初から「右京さんのような明晰な頭脳を持った警察官にこの謎を解いてもらいたい」という思考であるはずです。そのへんは有能そうな警官をピックアップしているところだったんですかね。それでたまたま右京が犯人のセンサーにひっかかったの?

だったら、犯人がもっと前から右京を知っていて、右京にこそ、この謎を解いてもらって真実にたどり着いて欲しい、みたいな展開だった方が自然だったような気がする。だってあれ、知ってもらいたいからこその行動ですもん。

で、シーズン6で無理矢理監察医制度ウンヌン言ってた「白い声」の時も思ったんだけど、相棒ってのは社会派を突っ込むから面白いんじゃなくて、ドラマの中で消化されているから(「ありふれた殺人」で亀山の甘さが如実になり、その亀山も最後には安易な同情を捨てて呑み込まなくてはいけないものを見つけ、その後味の悪さと苦さこそが良かったように)面白いんだなーと思った次第です。


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