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タカラヅカ・友情の在り方とは如何に?

宙チケを持っていないのでしばらくヅカに行けません。
大野作品は思考中。「花のいそぎ」はずいぶん評判がよかったようですが…

というわけで今回は観劇日記ではなく、「宝塚における男の友情とは?」とゆーことで考えてみました。というか、書かれるかたによって、友情のカタチが当然違うわけです。一番理想的、というかもはや理想像の域に達しているのが柴田作品の友情物ではないかと思います。

柴田作品は基本的に主人公がオトナなので、お友達に対しても、自分の立場と相手の立場の違いも考慮した上で、「忠告はするけど過干渉はしない」という意味で、非常に大人同士の友情なのではないかなーと思います。『凱旋門』のボリスとラヴィックとか。自分(主人公)も相手(友達)も双方、大人ですよね。相手の意志を尊重している。

友達に限らず「自分がこんなにしてるんだから、相手だってこうしてくれたっていいじゃない」という気持ちを持ってしまいがちだと思うんですが、相手には相手の立場がある。柴田作品の友情は、大人同士の友情。

しかし大人じゃないと友情は意味がないわけじゃなくて、子供同士の、お互いがお互いの気持ちをぶつけあうエゴもまた友達だからこそ。「友達だろ?なんとかしてくれよ」縋っているようで押し付けているようで、ぶっちゃけそれは依存というものだと思うわけですが、(私が見た限り近年のヅカで)「俺たち、友達だよな?」という台詞を使った演出家が二人います。

「花吹雪恋吹雪」齋藤吉正と、「聖者の横顔」荻田浩一。
「花吹雪恋吹雪」の舞台は戦国時代。主人公の友人・善次は、忍びをやめたあと僧侶となり、比叡山で仏の道に生きる決心をする。しかし織田信長によって比叡山は焼き討ち、善次は己の居場所を失わせた信長への復讐の念に燃え、信長暗殺を試みるが失敗し追われる身となる。善次は主人公石川五右衛門(安蘭けい)に助けを求め、「友達だから」助けて欲しいと懇願する。

「聖者の横顔」はイタリアの港町のお話。主人公は、誰からも愛される属性を持ったルーカ(さえちゃん)。さえちゃんルーカはジゴロという設定だけど、それは所謂イタリアのジゴロというイメージからはかけ離れたアクのなさ。彼はきれいだから(顔もココロもね)、彼のきれいさに惹かれて女たちがかまってくれるのです。ほんとにそんな受け身なイタリアのジゴロがさえちゃん(つか、ルーカだってば)。
ルーカには孤児院の仲間がいる。仲間たちは希望の象徴として「いつか海を渡ってアメリカに行こう」と語り合っていた。ルーカは孤児院の仲間うちでもなんとなく人気者。それは彼がきれいな存在だからなのかな。
孤児院の仲間のひとりファブリッツオは、本当はアメリカへなんか行けないと知っていた。だから彼は就職して地に足をつけて働こうとした。だけどルーカはなにもせずふらふらしている。でもやっぱりルーカが一番もてる。ファブリッツオの就職先の貿易会社のお嬢様のフランチェスカも、ルーカに惹かれている。

さてそんな状況で、ファブリッツオがルーカに結構な無理を言う。それは、ファブリッツオの勤め先の貿易会社の裏帳簿の入手。ジゴロであるルーカのパトロンの一人が、貿易会社の社長夫人だったから出来たことだ。ルーカは「友達だから」とファブリッツオの願いを聞いてしまう。結局、会社は大混乱。ファブリッツオは出世できるとかそういううまい話を振られて、裏帳簿を手に入れてしまったが、結局は騙されて勤め先を失っただけだった。
この事件が端緒となり、社長夫人イレーネはかつての恋人と心中。あろうことかルーカはその場に呼ばれ、心中という名の儀式の証人にされてしまう。ルーカは何もしなかった。ただ、状況に流されていただけだった。だけど母親の命と父親の会社を失ったフランチェスカは、どうにもならない憤りをルーカにぶつける。「なにもかもあなたのせいよ!」ほんとはそうじゃないってわかっていても、そうするしかなかった。

フランチェスカは混乱した心のまま、自分に気があるファブリッツオをそそのかす。「ルーカを殺して」と。ファブリッツオも混乱したままルーカにナイフを向ける。ルーカは穏やかにファブリッツオを止めようとする。「俺たち友達だよな?みんなで一緒にアメリカに行こうって約束したよな?」
しかし、ファブリッツオはルーカに対するコンプレックスのいっさいをぶつける。
アメリカなんて、そんなもの最初から行けるわけなかったんだ。だから俺は働いて、それで…その間お前は何をしてたんだよ?お前は何も悪くないかもしれない、だけどお前はなにもしなかったじゃないか!

友達だから依存してしまう。こうして欲しい、こうしてくれるでしょ?だって友達なんだから。無理を言ったって聞いてくれるはず。俺たち友達なんだから。逆に、友達でいたいから、相手の話を聞いてしまう。友達でいることを確認するために「俺たち友達だよな?」と言葉に出してみる。心底から判っているなら、そんなこと口にしなくてもいいのかもしれないのに。

自分というものがわかっていて、相手が自分と違う生き物だとわかっていて、お互いの立場を尊重し、お互いを思いやり、押し付けあわない。それが柴田作品における大人同士の友情。
だけど、自分がなんなのか判らなくて、相手だって自分が思うとおりに応えてくれたっていいじゃないかと願うこともある。それはお互いの立場を弁えた行為ではなくて、まだ子供同士なんだねってことなんだろうけど、子供なだけに、その未熟さがとてもリアル。身につまされるような痛みがある。

柴田作品の友情は、かくありたいという理想形だけど、ほんとは「花恋」や「聖者の横顔」であるような弱くて身につまされるものかもなーと、比較して思います。

なんか他の先生の作品について書いておりませんな。機会がありましたら、また。

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