「王家に捧ぐ歌」(3)苛められるヒロイン
なんかハイパー不穏なことを書いていますが、だから宗教はいいとかいかんとか、そういう話ではありません。現実になにかを信仰している方に対して、というのでもありません。
なにがいい悪い、といいたいのでもありません。なにがいい悪いとは、あんな簡単に割り切ってしまえるものではない、とだけ言いたいわけです。
「宗教」のもとに戦争を、というのではなく、強い信念があり思想があり、「宗教」という形で示されているのだと思うわけです。昔王様は神様だったから。王様の施政がまずければ、神様から天変地異という形でNOを突きつけられたりするわけですよ。こんな天変地異が起こるのは今の政治が間違ってるからだ、っていう思想もあるわけですよ。
宗教というのは現代においては一個人のものと受け止められるようになってきているのだと思いますが、むかし昔は、生活のすべてに結びつき、政治と結びつき、分かち難いものだったわけです。
だからあんまりシンプルに切り取って「宗教とは」「神とはなにか」とか言ってしまうのはいかがなものかと思います。
しかし、そーゆーハナシを取っ払ってみると、「王家に捧ぐ歌」というのは非常に面白いです。つか、たぶんキムシン先生からすると、そーゆーハナシを取っ払われることは不本意でありましょう、とは思います。でも別に、世の中の全員がキムシン先生の望みどおりにテキストを読んでくれたりはしないんで。申し訳ないですが。
さて、本題「王家に捧ぐ歌」。
これは非常に重層的に楽しめるお話です。ラダメス、アイーダ、アムネリスのそれぞれの立場でどーなのよと考えると楽しい。普通に三角関係のメロドラマです。しかも悲恋もの。
アイーダを主人公とすると、アムネリスはライバルのお嬢様。往年の少女漫画か、はたまた大映ドラマかって感じですが、地位も名誉も美貌もあるお嬢様がライバル、ヒロインのアイーダはとらわれの姫君で奴隷、でも愛するあの人は、ライバルのお嬢様じゃなくて私を選んでくれるのです。
でもアイーダはいじめられる。「アムネリスお嬢様(いや王女さま)と張り合おうだなんてあなたどういうつもり?」と、お嬢様の取り巻きにいびられるアイーダ。べったべたな展開が気持ちいい。アムネリスお嬢様は、愛するあの人にふさわしい人なのです。美貌の王女。愛するあの人は、王女の婿となることで、大国の支配者となる素晴らしい道筋が開けている。
でもあの人は、お嬢様でなくて私を愛していると言ってくれる。私もまた、誰にもいえないけど、あの人のことをお慕いしている。
…とゆうにはどうも、アイーダってラダメスのどこがいいと思ってるのか、いまいちわかんないんですが(わたるがラブで素敵だから!つーのは抜きにして)
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