「王家に捧ぐ歌」(1)キムシン主人公って。
中日劇場に行って「王家に捧ぐ歌」を見て、翌日大劇場で「エリザベート」見てきました。というわけで感想文。まずは「王家」から。というかプログラムにこんなことが書いてありました。演出の木村先生が、「王家に捧ぐ歌」の次作「スサノオ」で、こんな感想をもらったそうです。
スケールの大きさを讃えつつ、「戦の不条理を謳いあげすぎ」だというのです。それを読み「平和」にせよ「戦の不条理」にせよ、もう言葉そのものは力を失っていると思いました。
たぶん、こう言ってきた人は、木村先生の作劇は言葉がうるさいですよ、とそーゆー意味のことを言ったんだと思うんですよ。だって「謳いあげすぎ」って言うんですから。言いすぎだと。でも木村先生はいきなり一般論に持ち込んで「言葉が力を失っている」という結論に持っていっております。
木村先生の最大の欠点って、ここじゃないかなと思う。「鳳凰伝」のとき、「ひざまずけ」という表現がどうなんだという批評があって、「あれは愛にひざまずけっていう意味なんです」とスカイステージで反論した、という話がありますが、見ている側は、あれは愛にひざまずけという意味に取れなかったわけです。少なくともそういう人がいた。ということは、世の中にはいろんな見方をする人がいて、木村先生の思うようには受け取ってくれない人もいる、ということです。
でも木村先生は、自分の言うことわかれよ!とゆータイプの人ですよね。コレを見ても、中日王家のプログラムを見ても。というか、自分の言うことをすっごく聞いて欲しいタイプなんだと思う。そりゃ演出家だから当たり前?そうじゃないと思います。
世の中にはいろんな受け取り方をする人がいるから、解釈は人それぞれ。あ、そんなふうに考えたんですか、それ書いたボクも思いつきませんでしたっていうのもあると思うのです。
木村先生は、「自分の作品を自分の思うとおりに受け取って欲しい」というタイプなんだと思うわけですが、自分の思うことを相手がそのまま受け取ってくれるわけでも、納得してくれるわけでもない。だって「自分の思うことを、相手がそのまま理解してくれる」ってことって必ずしもありえないでしょ?誤解もされるし、考え方が違うから受け止めてもらえないことだってある。自分の考えは自分の考えで、相手の考えは相手の考え。どっちも正しい悪いじゃないし、どっちも正しい。そんなことってあるでしょう。だから人は、「自分はほんとうに正しいのか?」と懐疑するわけで。
でもキムシン主人公は懐疑しません。
自分の主張をえんえん語るだけです。まるで、自分の言っていることだけが正しいかのように。
キムシン主人公とゆーのはそーゆー独善的な面を持っていると思います。そこが危うい。
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